好きなブランド「sacai」の服が似合う男になる

最近、俄然気になっている洋服のブランド。

それはsacai(サカイ)というブランドです。

一見シンプルそうに見えて、小技がききまくってるのが大好き。

あと、身に付けたときのラインがすごい!

キレイなパターンで作られた服って、

え!?こんなに自分のおしりってかっこよかったっけ!?

とか、

こんなにウエスト細かったっけ!?

とか、一瞬思わせてくれるのが、最近のファストファッションと違うところだとおもう。

チープ感も全然ありません。

もう活動停止してしまったけど、greenのパンツなんかもまさにそうでしたね。

あとは、A.P.C.のニットとかシャツも。

もちろん好き嫌いはあるけれど、そういう系が好きな人なら絶対気に入ってもらえると思います。

ふだんの私はデニム+シャツのシンプルコーデ。

上着よりもデニムにしっかりこだわる派です。

あんまり小物とかも身に着けず、ギラギラしていないように見せているかな。。

あくまでシンプルイズベストなんだけど、たまにはサマーニットと後ろがギャザーになってるシャツを着てみたりして変化をもたせるようにしています。

これから冬だから、マフラーとかでワンポイントオシャレに見せることも検討中。

さらに、今年は髪型にも少しこだわってみようかと思います。

髪質がパサパサ系だからしっかりセットしないと強風だけで髪型が崩れてしまいます。

だから、ヘアムースとかのブランドをもう少し研究してしっかり固まるものを選ぼうと思います。

シャンプーも変えてみて、髪質が変わるかどうかも試してみたい!

こだわりファッションスタイルにヘアスタイルも合わせてSacaiの似合う男になりたいですね。

スカルプDの効果

ナノ技術が繊維から医療分野へ

ふとこのニュースを見つけたので…

クモの糸から強度3倍の繊維を開発、ナノ単位の医療機器が実現か

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2967396/11327825

ナノ技術というと、引用記事にあるとおり、繊維やアパレルの分野では防寒材などに割と使われていますね。

あとは半導体関係。CPUの配線なんかはナノミクロンプロセスが既に常識です。

といった感じでいままではモノづくりに応用されてきたわけですけど、とうとう人体の医療分野に応用される時代がきたのですね。

医療機器といってもよく読んでみると繊維を電流によって筋肉のように動かすのだとか。

今回は35ミリグラムという極小の持ち上げに成功したということですが、ナノ一本が束になってくると本当に筋肉の代わりになるかもしれませんね。

いままで手の付けられていなかった分野も治療可能になってくるわけでこれはすごいです。

そのうちかぜ薬なんかでもナノ技術で患部の奥まで届く!とか、湿布なんかでも、ナノで皮膚の奥まで浸透!とか発売されそうですね。

と、思ったら「目にナノ粒子を注入することで暗視が可能になる技術」なんてのも最新ニュースででてきたりしてびっくり!
https://gigazine.net/news/20190828-nanoparticles-humans-night-vision/

なんと光変換を起こすナノ粒子を含んだタンパク質を目に入れると赤外線も見えるようになるのだそうです。

つまり赤外線を発光して暗いところもとれる暗視カメラと同じ機能を人間ももつということ。

今はマウス実験中だそうで、人間に使われる日もそう遠くない。

タンパク質より細かいナノ粒子のくわしいスペックを知りたいところですね。。

なにかを創作している人に備わっているもの

ワタシはなにかを創っている人間が好きです。

これは、かっこよく言うとリスペクトだとも言い換えられますね。

その質というかレベルは関係なく、創作の素晴らしさを理解している人間を、私は無条件で尊敬できる性質なの
です。

蛇足を承知で、理由を示してみます。

もちろん、言葉にすることで、本質からは遠ざかる。

しかし、多くの場合、言葉を尽くすことでしか伝達行為が成立しないのも、また事実なのです。

話を戻そう。

日常的に創作に勤しんでいる人間に共通するのは、とにかく客観性が優れている、ということです。

これは、「創る」、という行為で磨かれる様々な能力のなかでも、もっとも重要な要素だと思う。

さらに、客観の視点に立つということは、当然、前提として自分自身の心の中における自覚力も磨かれる。

自覚、つまり自分の位置を正確に把握している人間というのは、清々しいくらいに格好良いものなのです。

創るという、極めて非生産的な活動をすることで、自身が豊かになっていく。

これほど素晴らしくて奥ゆかしい行為があるだろうか。

すくなくとも、ロジックの欠片もない癖に、原発反対を大声で叫んでいるだけの連中よりは、よっぽど人間的な行為ではないかと思います。

あの手の連中に欠けているのは、まさに客観から生まれる自覚力に他ならない。

だから、近所迷惑も顧みず、デモという名目で大人数で大声を挙げている連中は、よく考えた方が良い。

まずは、直感的に自分を見つめなおして恥ずかしい、という当たり前の感情を素直に認めることから、始めてはどうか。

ブログにまちうける未来とは…?

なんか詩やら漫画家の話が続いたので、いっそこのまま突っ走ってやろうかと思案中のワタシです。

ただ、こういう内容って実際に書くとわりとヘビィで、消耗が激しいんです。

ワタシの考えをただ吐き出しているだけだし、もっと気楽に、とも思うけれど、まあ、そういう心情を吐き出す場だったらTwitterでもいいし。

そういや、私はまだまだビギナだけど、最近のブログってどうなってるんでしょうね。

TwitterやFacebook、それにmixiなんかのSNSが大ブームになって、ブログのスタイルとかも変わりつつあるのでしょうか。

それとも、すでにブログというジャンルはある程度洗練され、確立されたものなのか。

まあ、でも、変わる必要はないのでしょうね。

現代は細分化された文化が無数に存在できる時代だから。

もちろん、それを可能にしたのはネットが極めて身近になったということ。

だから、どうしたってあらゆるものの規模は縮小へと向かうし、また、それで良いのでしょう。

以前のように、文化そのものが消滅することはない。

存在はできる。

それが黎明期を終えた過渡期の宿命でもあるのだから。

ブログ、BLOG…。

もしかしたら、数年先の未来、そんな言葉を知らない子どもが大半を占める時代がくるかもしれない。

しかし、それでもブログは消えない。

ちょうど、電子書籍が普及しても紙の本が消えないように。

そして、そんな時代に残る、あるいは価値が認められるブログには、きっとなにかの秘密がある。

そもそもブログとは、本来コミュニケーション・ツールとしての存在価値はないに等しい、というのが私の持論だ。

自分が書く場合は日記感覚で良いし、他人のものを読む場合は、人の思想が滲み出た文章を覗き見ることをただ楽しめば良い。

つまり、ブログの価値は限りなくコンテンツそのものにしか存在しないのだ。

たしかに、汎用性を高めるため、SNS的な要素を取り入れるのも構わない。

アメーバブログなんかがそうだろう。

ただ、繰り返すが、そこにブログの未来はない、と私は思う。

現代において、他者とコミュニケーションを取ることはとても容易です。。

正しいリテラシーを所有していないと、あるときは危険を招くほど、コミュニケーションの網は張り巡らされている。

もちろん、これが悪いということではない。

批判もしていない。

ただ、その網とは無縁の世界があっても良いのではないか、と思うだけだ。

かくいう私は、だからFacebookは嫌いだ。

あのやけに寄り添っている空気が苦手なのだ。

そのぶん、Twitterは良い感じである。

どことなく排他的じゃないか。

さて、まだまだブログ・ビギナなワタシだけれど、ブログはどんなものか。

もうすこし、探ってみたいと思う。

ただ、いまのところ、なかなか悪くない。

そんな小さな満足を原動力にして、たぶん、次回へ続く。

萩尾望都について熱く語ってみる

前回の詩と美の関係性についての続きにもなるのかな…?

美しい文章の書き手というのは、そういない。

小説家では、ワタシの中では森博嗣。これはダントツ。

で、もう一人の天才を語ってみたいと思います。

漫画家、萩尾望都。

漫画家なんだけど彼女の文章は凄まじい。

ひとつひとつがあまりにも詩的すぎて、たまに世界を見失ってしまうほどに私的で素敵です。

あの独特の発想の飛躍、思考のリズムを理解し、味わってしまうと、もう抜け出せなくなってしまう。。

音楽の歌詞なんかでもよく思うけど、一見、意味がわからないのに、なぜか格好良く感じてしまう。

意味がないものほど格好良い…というカタルシスを感じてしまうのです。

そんな文章のメカニズムを分解してみると、愛や恋や友情といったわかりやすい言葉だけを並べた文章とは、なにかが違う。

きっと、萩尾望都や森博嗣の使っている言葉の辞書は、普通ではないのだ。

すくなくとも、私たちが子供のころから使ってきた辞書には載っていなし、また生み出すこともできない。

では、なぜそんな途方もないものに惹かれるのか。

それはたぶん、彼女たちが見ている言葉の世界を見たい、と望む気持ちさえあれば、自分もそこへ辿り着けそうな気がする、という希望に満ち溢れた未来に私が支配されているためだ。

萩尾望都の文章はそれだけ甘く、魅惑的である。

しかしそれは、触れるだけで切れるナイフの断面が反射する、妖艶な光のようなものな刹那でもあるのだ。

詩と美の関係性をワタシ的に探求してみると…

ワタシは詩が好きです。

特に誰の書いた詩は好きとかはなく、どんな詩でも分け隔てなく読む感じです。

詩は、究極の抽象表現なのでは、とすら思う。

具象を一切排除したようなあの潔さに触れることは、自分の髪に纏わり付いた重たい粘着質を熱いシャワーで洗い流すような清々しさを感じられるのです。

最小限の言葉の数で純粋な美や価値に触れた、と受け手に錯覚させる「なにか」が詩にはある。

詩に限らず、この「なにか」を瞬時に感じられるかどうかが、創作の唯一の価値だと思います。

そこに私は際限のない美を感じてしまうのです。

たとえば、映画のクライマックスで、わざとらしく感動的な音楽を挿入し、効果を増幅させる。

映画のために書き下ろされた脚本をヒットしたからといってわざわざ小説化する。

これらはすべて邪道だと私は考えます。

小説でしか表現できないことがそこにあるから小説なのであって、

もし漫画や映画でもそれが表現可能なら、小説なんてものはいらないし、映画や音楽、漫画や詩でもそれは同様です。

その点、詩は潔い。

一遍の詩が漫画や小説になったという事例がないことが、それを証明しているのではないでしょうか?

日本語でも英語でも他の言葉でも、同じフォーマットであることもその孤高さが際立つのではないでしょうか?

繰り返すが、詩は潔い。

その圧倒的な優しさのなかで、私は簡潔な美をさがしています。見つけてしまう機会が多いのです。